介護を仕事にするということ

十数年介護を仕事にしてきて日々思う事

ユニットリーダー研修

私のいる施設はユニット型特別養護老人ホームです。

ユニット型の特養にはユニットリーダー研修の修了者を配置しなければいけません。

 

私の施設は、すでに配置基準を満たすだけの人数はいますが、新たにリーダーに任命した職員の希望もあり勉強の為にと、ユニットリーダー研修を受講させました。

 

余談ですが、基準上必置のユニットリーダーですが、研修費用が高すぎます。実習も伴う研修なので、仕方ないと言われれば仕方ないんですが、胡散臭い団体がほぼ独占しているかのような研修を、ユニット型運営に必置で受けざるを得ない状況で受けさせられていると思うと、納得できないことも出てきます。

 

話を戻しまして、研修が終わりその職員が戻ってくると、

「すごく勉強になり、良い研修でした」

と報告をくれました。

 

だいぶ洗脳されて帰ってきましたね。

 

私もユニットリーダー研修を受講したことがありますが、あれは胡散臭いですねぇ。

自分たちが提唱するユニットケアなるものが、如何に素晴らしく正解なんだよと色々教えてくれますが、教え方がダメです。

ユニットケアでは、こうします」

ユニットケアでは、これはダメです」

って言い切るんです。

 

研修の中身は良いこと言ってるんですよ。

「家っぽい雰囲気作ろうぜ」とか

「みんな生活リズムは違うよ」とか

考えさせられることは多かったし、実際考え方が変わったこともありました。

 

でも、それをそのまま実践するのはどうかと思います。

 

そのリーダーは戻ってくるなり、取り組みたいことを色々と話してくれましたが、その中で、

ユニットケアでは起きる時間はその人のペースに合わせるんで、起きるまで起こさないことにします」

 

まてまて、何を言っているんだ。

洗脳され過ぎやろ。

 

我々介護職が目指すべきところは、個別ケアです。

ユニットケアだから~しなければいけない。なんてことは全くありません。

まず、「ユニットケアだから」って言うのをやめさせました。

 

ユニットケアだからっていう考え方では、ただの小集団ケアです。

 

「起きるまで起こしません」って言うのもおかしいですね。

たぶん研修でも、そんな教え方はしてないとは信じてますが、そう捉えて帰ってきた職員がいるのは事実です。

そのうち詳しく書きたいと思います。

 

ただ、他にも「ユニットケアだから」「ユニット型施設だから」っていう職員がいるんですよ。

その職員もユニットリーダー研修を受けています。

考え方の根本に利用者がいないんですよね。

 

ユニット型施設は従来型に比べて素晴らしい部分がいっぱいあります。

何より、1人ずつの利用者に深くかかわれることが一番の魅力ではないでしょうか。

では、1人の利用者に深く関われることの何が素晴らしいんでしょうか。

望む暮らしの実現でしょうかね。

 

利用者に限らず、みんな自分が生きたいように、生きてきたように最後まで生きたいですよね。

それを専門性を持って叶えるのが介護の醍醐味であり、個別ケアだと思います。

その個別ケアが10人分集まったら、1ユニットのユニットケアになるんだと思います。

 

なので、初めから「ユニットケアでは~ですよ」なんて言うのは、本当に胡散臭いですね。

 

書いてて、また話があっちこっちしましたが、ユニットケアなんて言う、集団ケアを目指すのではなく、個別ケアを目指して、実現できる方法を模索していきたいですね。

売り手市場

世の中の景気が良くなると介護業界の人員はあっぷあっぷ言い始めます。

景気がよくなった実感は全く感じられないですが、少子化も相まって、どの業界も売り手市場ですね。

 

介護業界って、もともと人員が足りないんで常に売り手市場なのに、他業種と取り合いをするとかなりきついです。

不景気になり失業者が増えれば増えるほど介護に人が流れてきて、中には素晴らしい適性を見せる人もいたりして、人材を確保出来ていたように思います。

余談ですが、介護がやりたくて仕事している職員たちは、だいたい理想を持っていて、我が強かったり、ぶつかり合う事も多いですが、仕事として介護を選んだ、選ばざるを得なかった職員たちは、割りと中性で柔軟ですよね。

イヤイヤ感丸出しで、長続きしない人もいますが・・・

 

話は売り手市場に戻りまして、

介護業界全体が、売り手市場なもんだから、職員の中にはすぐに「辞めます」っていう人がいます。

合わない職場なんて辞めても、すぐに次の職場がありますからね。

田舎では職場の数が限られているので、そこまでではないですが、街にいくと顕著にみられていますね。

履歴書見ても、書ききれてない人が結構います。

 

しかしながら、雇用側もどんな人でも採用しないと、人員基準をクリアできないために、来るもの拒まず状態です。

転職する職員にとっては、良い環境ですね。

辞められる会社側にとっては、かなり辛い状況です。

 

じゃあ環境を整えて辞めていかない職場にしたらと、国も言いながら、職場定着促進事業を行っていますが、

出来るくらいならやってますよ。

 

離職の理由で多いのは

・身体を壊した

・法人のやりかたが気に入らない

・人間関係

・給料安い

・変則シフトが合わない

・育児と仕事が両立できない

このへんですよね。

 

「身体を壊した」は、体力的な部分はいろいろサポートしてくれる福祉用具が出てきていますので、活用次第ではクリアできるかもしれません。ただ人間関係や変則シフトも関係してそうですね。

「法人のやりかたが気に入らない」は、そんな方はどうぞお辞めください。

「人間関係」自分で人間関係作れない人は介護に向いてないと思います。

「給料安い」これは、国も法人も頑張りを見せたいところです。

「変則シフトが合わない」なんで施設介護を仕事に選んだんや。DSもあるで。

「育児と仕事が両立できない」この業界だけではないですが、がんばれ日本。

 

 などと考えていると、事業所単位で頑張れることってなんでしょうか。

 

職員をつなぎとめるために、その職員の居心地のいい環境づくりですかね。

 

我々は利用者の為に働いています。職員が働くために職場があるのではありません。

確かに働きやすい職場環境を目指しはしますが、それは一個人の為ではありません。職員全体のためです。

 

売り手市場が続くかぎり、雇用側が弱腰になるのも仕方ないかもしれませんが、それをいいことに勘違いしている人がいるんじゃないかと思います。

 

話があっちこっちしますが、結局何が言いたいのかというと、

 

不景気になってくれ。

 

ではなくて、職場が合わないなんて言うんではなく、職場に合わす努力をしてください。職場がヒドイことしてるんならまだしも、自分が合わそうともせず、合わないなんて言われても、何にもしてあげられません。

不適切なケア

先日、虐待対策委員会に途中から出席すると、席に着くなり介護職員からこんな質問がありました。

「トイレで利用者様に着替えて頂くのは虐待ですか?」

なんのこっちゃと思いましたが、

どうやら、不適切なケアについての話題で盛り上がっていたみたいです。

 

「虐待対策委員会」名前は違えど、どの施設にも設置してある委員会かと思います。

 

幸いにも私の施設では虐待は行われておりません。

虐待が行われていないので、虐待対策委員会の主な活動は虐待の予防という事になります。

虐待の予防といえば、接遇の見直しや不適切なケアの洗い出しがメインではないかと思います。

私の施設でも、その流れにのって虐待対策委員会は接遇や不適切なケアについて話をしています。

まだ始めたばかりなので、各部署からの意見聴取をしている段階ですが、その場での質問でした。

 

「トイレで利用者様に着替えて頂くのは虐待ですか?」この質問をしたのは、ベテランバリバリの介護職員です。

 

残念な気持ちでした。ちょっと当たりはキツイけど、仕事は出来るしハキハキしてるし、「リーダーとかやってくれたらいいな」くらい思っていた人なだけに。

 

トイレで利用者に着替えてもらうことが良いか悪いかの判断が出来ないんですよ。

 

施設職員のダメなところは閉鎖された空間で介護していることだと思います。

感覚がマヒするんですよね。何が正解か分からなくなってしまう。

そして、その施設で行われていることが正解だと思ってしまう。

 

誰しも考えることが嫌いなのも分かります。流れに乗って作業をこなす方が楽です。

でも、それではいつまでたっても介護は専門家になれません。

一人ひとりが考えて行動できることが求められています。

 

話がそれました。

不適切なケアに戻りまして。

不適切なケアってなんでしょう。適切ではないケアですね。

適切ではないケアということは、利用者様に合ってないということですね。

利用者様に合ってないという事は、それは行ってはいけないことです。

 

では、どんなことが不適切なケアでしょうか。

先ほどのトイレで利用者様を着替える行為は不適切なケアでしょうか。

 

それは利用者様が決めることですね。

 

どんなケアをするのにも、そのケアをする理由があるんです。根拠が必要なんです。

その利用者様をトイレで着替える根拠があるのであれば、それは適切なケアになります。

介護は、科学的根拠に基づいた実践です。その根拠を見失えば、単なるお世話です。

 

なので「トイレで利用者様に着替えて頂くことは虐待ですか?」の私の答えは

「その利用者様にトイレで着替えなければならない根拠があるのであれば、虐待ではない」です。

「職員都合なら虐待か」と言われれば、虐待とまではいかなくても不適切なケアであることは間違いないです。利用者様の感じ方によっては精神的虐待に当たるかもしれません。

 

一通り説明をすると、質問をしてきた職員は「わかりました」とだまってましたが、たぶん何もわかってないでしょうね。

他の委員もそのやり取りを見てましたが、説明を頷いて聞いてたのは、生活相談員くらいでした。一人でも何か感じてもらえたらいいんですが。

 

我々、介護従事者が目指すところは「個別ケア」です。現実には難しいことも多いですが、考え方は必要です。やろうと思わなければ何も出来ません。

どんなことでも一律に良い悪いという概念は捨てましょう。色んな可能性を考えながら、利用者の望む生活の実現を目指していきたいものです。

介護支援専門員の力量

介護計画ってありますよね。

ケアプランとも言われているものです。

どっちが一般的なのかはわかりませんが。

ケアマネージャーが作ってるアレです。

居宅と施設で扱いが違うところがありますので、今回は施設の介護計画について書きたいと思います。

 

私は多くの事業所を知っている訳ではないので、はっきりしたことは分かりませんが、介護職員はあまり関心がない気がしています。

私も実際に現場にいた頃は、読んではいましたが「ふーん」程度で流してました。

最近は、そんなことはないんでしょうか。

介護計画ってなくても介護できますよね。それなりの知識と経験のある介護職員なら、計画を見なくても、その利用者を見て介護ができます。

 

だから介護計画は軽視されがちです。

 

なんの為に介護計画があるのでしょうか。

介護保険で作らないといけないからあるわけではありませんね。

利用者側から見れば、よりよい生活が送れるよう、利用者の為に利用者のものとしてあるものです。

職員側から見れば、その利用者に誰が接しても同じように統一された介護を提供するためにあります。

めっちゃ大事なものなんです。

 

では、なぜ軽視されるんでしょ。

私はケアマネの力量不足とケアマネが孤独だからだと思っています。

孤独であってはならないケアマネが孤独なんですよ。特に施設ケアマネは。

ほとんどの施設にはケアマネが一人しかいません。そりゃあ、施設ケアマネは100人まで受け持ってもいいんですから、だいたいの施設では1人で十分ですね。

1人という事は、誰も仕事を理解してくれる人がいないんですよ。

ケアマネ持っている相談員や管理者には理解してもらえるかもしれませんが、介護職員や看護職員からは何をしている人かすらわかってもらえません。

この辺の話をしていると違う話になりますので戻りまして。

 

軽視されるような介護計画は論外として、

きちんとした介護計画が軽視されるから、統一された介護が提供できないんです。

利用者は入居の時に、計画に則った介護を受けられるという契約をしています。

なので、介護計画に載っているサービスは行わなければなりません。

 

でも、そんな決まり事すら介護職員は知らない人がいます。

ということは、ケアマネが教えなければならないんです。

孤独なのも、自分の力量不足だと感じながら、介護計画の必要性を広めなければなりません。それが、介護支援専門員に求められることだと思います。

良い計画を立てるのはもちろんですが、実行させる能力こそ介護支援専門員には必要だと思います。

 

うーん。介護計画大事だからねって記事にしようと思ったのに、介護支援専門員の力量の話になってしまった。

思う事はたくさんあるので、今後も脱線しながら書いていきます。

介護の専門性

介護と看護の関係性はどこにいっても言われることですね。

っていうほど私は多くの事業所を経験してませんが(笑)

話はあちこちで聞きます。

 

以前、面接に来た看護師は「介護と看護は永遠のテーマだ」なんて言いながら、完全に介護を見下したような物言いだったんで落としました。

そりゃあ、看護師は業務独占ですし、病院経験してたら看護助手のイメージで介護職に接するでしょうから、見下していても仕方ないかもしれません。

 

しかし、介護施設では同じ立場であるべきなんです。

いや、どっちかっていうと介護主導であるべきなんです。

介護施設は病院ではありません。治療ではなく生活する場所です。

 

なのに看護が主導権をもっている介護施設があります。

介護と看護がもめた時に看護が勝つんです。

なぜなんでしょうか。

 

それは、看護は専門家で、介護が専門家になりきれてないのが原因だと考えてます。

確かに介護って、昔は「誰にでも出来る仕事とか」「近所のおばちゃんの寄せ集め」「子育てしてたら一緒や」みたいに言われてた時代がありました。

 

介護保険が始まる前は、専門性なんて口にする人は、ほとんどいなかったと思います。それで良かったからですが、今は違います。

介護には専門性が必要で、我々介護に携わる人間は専門家であるという自覚と誇りを持つべきなんです。

 

看護は学校を出て資格を取らなければ業務できません。そのため専門的な知識のうえで経験を積んでいます。介護は資格保持者が増えてきたとはいえ、現場叩き込みでも資格取得できます。

また、看護は命を守るという、マズローで言う一番下の欲求の部分に携わる仕事です。

介護と看護がもめると、看護の方が専門的知識と人間の最も重要な欲求の部分で攻めてきますんで、並みの経験則では太刀打ちできないのも仕方ありません。

 

そこで重要なのが介護の専門性です。介護ってなんなのか自分の中ではっきり根拠を持っておくことが必要です。

介護は単なるお世話ではありません。

その利用者が求めているから介助するのではありません。

その利用者に、なぜその介助が必要なのか、専門的に根拠をもった上で介助する必要があります。

 

介護は「科学的根拠に基づいた実践」です。

 

その為には多くの知識が必要です。そんなに簡単に得られるものではありません。

しかし、今介護現場に求められているものなんです。

少しずつでもいいと思います。利用者に介助をする時に「なんでこの人にこの介助をするのか」を深く考えてみてください。

答えが出ないときには、近くにいる先輩方に聞いてください。分からなければ話し合ってみてください。一人で分からないことも数人で話しているうちに見えてくることもあります。

考え続けることが自分たちの専門性を高めてくれることに繋がると思います。

 

いろいろ書いて取り留めのない文章になっていますが、私は介護に携わる人間はもっと自信をもって専門家だと言ってほしいんです。

もちろん看護に勝つ為ではありません。利用者がよりよく暮らせるためにです。

 

介護保険法が出来てまだ20年にもなりません。まだまだ知識も技術も確立されていない部分が沢山あります。

今の常識は数年後には非常識なんてこともあると思います。

その事を頭の片隅に置きながら、柔軟に貪欲に知識の獲得に努めていきたいものです。

認知症と嘘

認知症という病気があります。昔は「痴呆」または単に「ボケ」とか言っていました。

今では認知症という言葉はかなり一般的になりましたね。

余談ですが、私は認知症を略して「認知」っていう人が嫌いです。認知症があるという事を「認知がある」って略すと完全に反対の意味になります。

業界の人じゃない人が言うなら「この人分かってないな」くらいで済みますが、業界人で居宅のケアマネとかが平気で使っているのを聞くと、この人頭悪そうやなっていうイメージになります。

話は戻しまして、

認知症って難しいですよね。でもおもしろい。

認知症の難しいところは周辺症状って呼ばれている部分かと思います。その辺を詳しく書き出すと大変なので辞めときます。

でも、家に帰ろうとする人や、粗暴な言動がある人困りますよね。

周辺症状を緩和するために必要なことは環境を整えることっていうのは良くいわれることで、良く分かります。

でも現実としてその環境を作ることに無理があることも多いです。

すると、介護職はどうするのかというと、認知症の人に嘘を言って気をそらしたり、誘導をします。

その嘘についてどう考えるのかです。

「嘘を言う」っていうと人聞きの悪いように聞こえます。また、「認知症だからと言って人を騙してもいいのか」なんていう人もいますが、私はいいと思うんですよ。

もちろん何でもかんでもいいとは思っていません。

でも普通に暮らしてて、相手の事を思って嘘をつくってことは普通にあり得るでしょ。

バカ正直な人に聞きたくない事実を告げられた時に「嘘でも〇〇って言ってよ」って思ったことがある人も多いと思います。

認知症の人だって思いやりのある嘘をついてもらえる権利があるんですよ。

こう考えると、嘘をつくこと自体がどうのこうのいう事自体が意味のないことだと思います。

要するに、その人を思いやって嘘をつく必要があるから、嘘をつくんです。

そこで大事なのは、介護職として「なぜこの嘘をつくのか」を分かったうえで嘘をつくことだと思います。

介護職は対人援助の専門家です。専門家であるからには、全ての行動に根拠を持っておくべきです。最悪、後付けでもいいので「なぜそうするのか」を考えてほしいです。

 

いろいろ書きましたが、要するに認知症の人に嘘をついても良いけど、その方が落ち着けるように考えて、思いやりを持った嘘をついてねということです。

介護の天才

介護を仕事にして十数年、中には「天才やな」と思う職員がいます。

私は仕事として介護をしていますので、頭で考えて、知識や経験、技術から利用者の介護を考えてから行動します。普通の事ですよね。

しかしながら、天才はそんな必要がないのです。

自らの天性の感情と感覚で介護を行います。ですから、即座に行動し、その行動をなぜ行ったのかなんて考えていません。

 考えなくても、その利用者の気持ちになることが出来て、その利用者が望むことが出来てしまうのです。

介護を行う上で、利用者の気持ちを知ることが大事なことは言うまでもないことです。なので、我々介護を行うものは利用者の気持ちを知ろうと考えます。天才は気持ちを知ろうとするのではなく、気持ちになれるのです。

気持ちになれるので、考えずに行動しても、大きく間違ったことはしません。

すごいことだと思います。いくら知識をつけて、経験を積んだとしてもその領域には入ることが出来ません。

その天才たちは「万人を愛せよ」と言わんばかりに、全ての人間を愛し、全ての人間が幸せになれる方法を考えているような人たちです。だからこそ踏み入ることができる領域なんでしょうね。

ただ、その天才たちが、揃って苦手なことがあります。

それは、自分の頭の中を人に説明する事です。

天才たちは考えずに介護ができてしまうので、なぜそのように行動したのかを考えていません。なので、感覚を人に伝えることが難しいように、人からなぜそうしたのかを問われても、明確に答えられないのです。

現場でガンガン介護をしていればあまり問題にはなりませんが、行事の企画や上の立場になって人を教育や指導を行うとなると、大きな問題になります。

感覚を話すので、同じ感覚で聞ける人にしか理解できないのです。

 

天才は潰れていきます。

やる気もあり才能にも恵まれている、介護の為に生まれてきたような人間を理解できず、現場では実績を残せるのでリーダー格へ起用されるも、企画や教育が出来ないといって飛ばされる。天才はそんなことではやる気を失わないのが、せめてもの救いですが、折角の才能はいかされないまま埋もれていきます。

天才を生かすも殺すも、天才を理解できる職場環境次第です。天才はそんな簡単に見つけられません。我々常人ではできないことを天才は出来るのです。それを認め、如何に生かしていくかを考えれば、利用者にとって必ずプラスの結果になります。天才にだって苦手なことはあります。そこをカバーできるのは職場環境です。天才の声を聞いてそれを実現できるようみんなで考えていくことが必要です。

 

上に立つものも理解すべきだと思います。職員単体の能力だけで評価するのではなく、組み合わせをもっと考えるべきです。相乗効果が期待できる組み合わせを行う事で能力以上のものを発揮できることもあります。

天才も同じです。もっと才能を生かせる組み合わせを行ってでも、天才を生かすべきです。それが介護の質を上げることになり、利用者利益につながることは確かです。

 

いろいろ書いてきましたが、要するに、介護の世界には天才がいるから、うまいこと使って利用者にハッピーになって頂こうということです。